◆住吉型狛犬一覧表◆( 小寺氏著書より ) |
◆堺の石工たちや和泉石について◆( 小寺氏著書より ) |
■和泉石工について■( 金森氏投稿論文より ) |
大阪市 | |
2011, 06, 12 | |
◆狛犬関係の詳細データは、 ≪ 小寺慶昭著 『大阪狛犬の謎』 ナカニシヤ出版 2003年11月30日 ≫より引用しています。 )◆ 住吉大社の狛犬については、 〔 第2章に 住吉大社の石造狛犬の謎 〕 に詳細に書かれています。 是非とも一読を!!! |
|
住吉大社 ( 大阪市住吉区住吉2-9-89 ) 摂津国の一の宮、住吉神社の総本社 古くは摂津国(せっつのくに)の中でも、由緒が深く、信仰が篤い神社として、「一の宮」という社格がつけられ、 人々に親しまれてきました。昭和21年までは官幣大社であり、 全国約2300社余の住吉神社の総本社でもあります。 ( 住吉大社HPより |
|
■摂津の国とは■ 大雑把に、現自治体単位で言うと下の通りです。 高槻市( 一部 丹波国 )、茨木市、摂津市、吹田市、三島郡島本町、豊中市、池田市、箕面市、 豊能郡豊能町能勢町(一部 丹波国) 大阪市(一部 河内国)、。 |
|
●西大鳥居前狛犬 岡崎古代式狛犬● 昭和12年4月 1937年 像高176cm 岡崎市中町 石匠 杉浦磯治郎 刻 |
|
■ 「岡崎古代式狛犬」 について■ この狛犬モデルは、滋賀県栗東市の大宝神社にいる檜の寄木造の狛犬で、国の重要文化財 鎌倉時代の作で、50cm足らずの小さな像だが、精悍で俊敏な姿の傑作である。戦前には、国が経営していた官幣社や 国幣社などに設置する狛犬のモデルとして推奨した様式である。 ( 小寺著 p 59 より ) |
|
●大阪府下一番古い参道狛犬● 反そり橋前の狛犬 住吉型狛犬 (銘) 元文元丙辰年六月吉日 ( 1736年 ) 花崗岩 堺石工 男里屋市兵衛 像高 阿形128 cm .吽形138 cm 堺講中 32名の寄進者氏名が刻まれている |
|
■ 「 住吉型狛犬 」について■ ●「浪花式狛犬・住吉型」と命名----略称「 住吉型狛犬 」と呼ぶ。( 小寺氏 ) 特徴-----のっぺらとした長くて四角い顔 獅子・狛犬の形式 尻尾が身体から独立せず、背中に密着している 大阪府内住吉型狛犬一覧 最下記に。 |
|
●北鳥居前 陶器製狛犬● (銘) 慶應二季年丙寅正月 ( 1866年 ) |
|
◆追記◆ 20110903 慶應二・・・・は、台座に銘。狛犬の身体には、「明治二年八月」と刻まれている。 寄進者・・・・・「備前岡山有志」 「堺の大塚三郎兵衛」 |
|
●船玉神社狛犬● 文化十三子年三月吉日 ( 1816年 ) |
|
2011、06、12 |
◆住吉型狛犬一覧表◆ |
狛 犬 名 | 所 在 地 | 寄 進 年 | 体 長 右側 - 左側 | 材 料 備 考 | ||
住吉大社a | 大阪市住吉区住吉 | 元文元年6月 1736年 | 133 - 140 | 御影石 堺石工 男里屋市兵衛 | ||
住吉大社頓社a | 堺市堺区宿院町 | 寛保3年6月 1743年 | 111 - 113 | 御影石 ------ | ||
野々宮神社a | 堺市中区深井清水町 | 宝暦4年3月 1754年 | 76 - 77 | 御影石 石工 大坂屋忠兵衛 | ||
屯倉神社a | 大阪府松原市三宅中 | 宝暦13年1月 1763年 | 84 - 86 | 御影石 堺石工 男里屋市兵衛 | ||
志紀長吉神社a | 大阪市平野区長吉長原 | 天明3年11月 1783年 | 92 - 93 | 御影石 堺石工 大和屋庄兵衛 | ||
長曽根神社a | 堺市北区長曽根町 | 推定 天明頃 | 97 - 96 | 御影石 ------ | ||
百舌鳥神社a | 堺市北区百舌鳥赤畑町 | 推定 天明頃 | 78 - 79 | 砂岩系 ------ | ||
萩原神社a | 堺市東区日置荘原寺町 | 推定 天明頃 | 103 - 107 | 御影石 ------ | ||
金岡神社b | 堺市北区金岡町 | 寛政5年8月 1793年 | 108 - 107 | 御影石 堺石工 泉屋卯兵衛 | ||
※狛犬名の a , b は、本殿に近い順です。 参道狛犬のみ。 ( 小寺氏のデータの整理方法です ) | ||||||
※体長は、本殿に向かって 右側 cm -−- 左側 cm と記しています。 | ||||||
※所在地名は、堺市の場合新地名です。 堺市は平成18年(2006年)4月1日 政令都市になり区名が入りました。 | ||||||
● 小寺慶昭著 『大阪狛犬の謎』のP、82-83 の一覧表の部分抜粋です。 ● |
2011、06、12 |
◆◆堺の石工たち や 和泉石 について◆◆ ( 小寺氏著書より ) |
◆南海本線 樽井駅(泉南市)の次の駅 尾崎駅(阪南市)がある。 この両駅の間を流れているのが、男里(おのさと)川であり、 「堺石工 男里屋市兵衛」が活動していた場所が推測される。泉南市には、今でも「男里」の地名が残っている。 ※この男里(おのさと)川が、泉南市 と 阪南市 の境界線になっている。 |
尾崎駅の次は鳥取(ととり)の庄駅・箱作(はこづくり)駅と続く。 |
鳥取や箱作こそ、和泉石の産地として有名な所。 |
◆寛政8年(1796年)刊の 『 和泉名所図会 』 には、「名産和泉石」と題して、紹介されている。 |
鳥取(ととりの)荘及び下荘箱作村多く出る。其色、青白にして細密なり。石碑を造るに文字顕然なり。 京師及び諸国に出る事多し。 近年孝行臼といふもの、此石を以て作る。 強き魚物の類、此舂(うす)に入、則、同石の杵を以て舂(つき)和らげ、歯のなき老人に進む。 味損(あぢはひそこん)ぜずして可也。又、引茶、白酒等にみな此磨(うす)を用ゆる。 |
舂 ---- シュ、 ショウ 〔意味〕 うすづく。うすでアワなどの穀物をつく。ものをつく。 |
2011、06、12 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
■和泉石工について■ | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
和泉石工---近世における移住についての一考察-- 金森敦子 ・和泉石作連 ・和泉石から御影石へ ・近世初期、石工棟梁たちの活躍 ・和泉石工の衰退 ・諸国への転出と定住 ( 『 日本の石仏 季刊第14号 』 p、25〜37 日本石仏協会刊 1980年7月5日刊 ) より 抜粋 |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
昔鳥取郷と呼ばれた黒田・鳥取・箱作・淡輪 いずれも泉南郡阪南町 といったところが、和泉石工たちの本拠地となった。 淡輪 ( たんのわ ) 『 和泉名所図会 』には近世の和泉石工の姿が描かれているが、そこには「和泉石は其性細密にして物を造るに自在なり、鳥取荘箱造りに石匠多し」とある。 和泉砂岩は、柔かくねばりがあって細工しやすい。でき上がりも見映えがよく、仕事や日数もかからない。 |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
この土地で庄屋だった根来家は、代々徳左ヱ門を名乗り、明治から昭和にかけて和泉砂岩の石山を経営していた家である。 御当主の話によると、そのころ和泉砂岩が最盛期を迎えたのは、大正5年頃から昭和の初年にかけてで、常時20人から30人の職人をかかえて、北は青森、南は鹿児島まで全国に石を送っていた。中でも滋賀には石碑用の石を多く出していたという。 明治13年の四国の庵治では、庵治石が讃岐でも上等の石材であるとしながらも 「 ただし和泉の石より一等下につく 」といわれていた。 現在、庵治石は一番高い石材の一つである。 |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
『工芸志料』(明治11年刊行)にでも 「 而して、諸国の石工の中に和泉の日根郡の鳥取郷の石工、殊に善く器物を造る。 相伝えていう、鳥取郷の石工は石作大連公某の後なりと、今に至って仍お業を伝う 」 と記されている。 |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
明暦(1655年〜)頃から、泉州石工は各地に出稼ぎにいくようになる。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
寛永4年(1627年)九月、高野山奥之院 二丈八尺六寸という巨大な五輪塔 造立 ( 総高 6 .6 m ) 徳川忠長がその生母たる崇源院殿追善供養のため。 石工 泉州黒田村甚左衛門。 石材は花崗岩。 石工 泉州黒田村甚左衛門 ----- 関西一円で石工棟梁として活躍 ■■※ 追記 2013, 07, 09 ※ 詳細写真 ※■■ |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
高野山奥之院 寛永10年(1633年) 佐竹家五輪塔 泉州之石屋小右衛門 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
寛文12年(1672年) 五輪塔 黒田甚兵衛 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
東京芝増上寺徳川家霊廟の床下右に寛永9年(1632年)の名 石屋甚左衛門尉重正 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
寛永4年(1627年) 波多神社 ( 阪南市 ) 「山神」燈籠 石工中 70数基ある灯篭 和泉石 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
泉州石工の名 各地に | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(高木嘉介氏、阪南町役場藤本透氏その他の調査による) と、 p、32に 書かれている。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
※阪南町-----平成3年(1991年)10月1日に 「 阪南市 」 となっています。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
大阪・京都をはじめ、江戸あたりまで和泉屋を名乗り定住を決意した人々が多くいた。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
●年号は石工たちが移住した年ではなく、石造物の造立された年である。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
●『庵治(あじいし)石』● 香川県高松市牟礼(むれ)町 牟礼町でとれる花崗岩は良質で全国的に「庵治石」の名で知られている。 構成鉱物の結晶が極めて小さく、結合が緻密なため他地域の花崗岩に比較してもより硬いのが特徴。 二百年は彫られた字が崩れたり、赤茶色に変色したり、艶が無くなったりしないといわれている。 石材という観点から花崗岩は細目(こまめ)、中目(ちゅうめ)、荒目(あらめ)と分類され、庵治石は細目と中目に分類されている。 |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
■庵治(あじいし)石の狛犬 地元の石工のようだが、大坂で修行したのだろうと推測される。 |
2011、09、03 |
●●● 大阪 住吉大社 古絵葉書 第一本宮前の狛犬 ●●● |
●追加● 明治廿九年二月吉日寄附 ( 1896年 ) 五世 廣海二三郎應晴 |
2011、11、13 追加 | |
◆◆◆ 大阪 住吉大社 狛犬 ( 東大寺南大門型狛犬 )について ◆◆◆ 石造 昭和 18年( 1943 ) 再建 像高 約92cm 現在、像そのものは向き合う形でいるが、本来は正面を向く形( 西方向 ) が 正しいのかもしれない。●上の古絵葉書の狛犬は、下の銘からすると、ブロンズ製と思われるので現存はしていない。● |
|
( 基壇に銘 ) 明治廿九年二月吉日 寄附 五世 廣海二三郎應晴 昭和十八年二月吉日 銅鐵獻納ノ為石彫ヲ以テ再建 六世 廣海二三郎應敬 |
|
2013、3、25 追加 |
●●● 大阪 住吉大社 正門参道の古絵葉書 出雲式の狛犬 ●●● |
古絵葉書 大正7年1918年〜昭和7年1932年頃の年代 |
この絵葉書の出雲式狛犬は現存していない。詳細はわかりません。 現在、この場所に 昭和12年製の巨大な岡崎古代式狛犬が座っている。 |
■ 追記 20130416 詳細判る ■ 「 この狛犬は、もともと住吉大社の正面大鳥居前にあったものですが嘉永2年に再建し、昭和12年4月に住吉公園に移設されたが、 |
2013、06、17 追加 |